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今日は、山崎蒸溜所の話の続きでしたね。
昨日のブログで、竹鶴政孝の事に触れましたが、
彼こそが、「日本のウイスキーの父」と呼ばれ、後にニッカウイスキーの創業者となる人です。
「花子とアン」の後の、9月からのNHKの朝ドラが、この竹鶴政孝と妻リタをモデルにした「マッサン」です。
スコットランドから来た妻リタが、政孝のことをマッサンと呼んでいたので、「マッサン」というドラマ名になったようです。
ドラマも始まることですし、今日は、竹鶴政孝の事を少し記しておきたいと思います。
広島県賀茂郡竹原町(現竹原市)の造り酒屋で生まれた竹鶴政孝は、大阪高等工業高校の醸造学科で学び、洋酒に興味をもち、1916年(大正5年)卒業を待たずに大阪市の摂津酒造に入社。
当時、寿屋(後のサントリー)の下請けとして摂津酒造は「赤玉ポートワイン」も作っていたが、アルコール殺菌が徹底して行われてなかった葡萄酒の瓶が、店先で破裂する事故が、多発。
しかし、竹鶴が製造した赤玉ポートワインは、徹底して殺菌されていたため、酵母が発生増殖することなく、割れるものが一つもなかったそうです。
このことで、竹鶴の酒造職人としての評判は、世間に広がり、1918年(大正7年)摂津酒造社長、阿部喜兵衛の命を受け、ウイスキーの製造技術を学ぶため、単身スコットランドに赴き、グラスゴー大学で有機化学と応用科学を学ぶ。
しかし、座学だけではどうにもならないという焦りから、ハイランド地方の蒸溜所に軒並み実習願いを出す。
「一日も早く国産ウイスキーをこの手でつくらねば」
という使命があったから。
そんな中、ロングモーン蒸溜所から、実習の許可が下りた。
来る日も来る日も朝から夜遅くまで現場を歩きまわり、人の嫌がる仕事も勉強だと進んでこなした竹鶴。
実習では、なかなか細部まで明らかにされなかったが、幸運にも年老いた職工が、東洋から来た青年の熱意に感じ入り、蒸留器のバルブの操作などを教えてくれた。
いつしか、竹鶴のノートには、びっしりと設備のことや操作の注意などが書き込まれていった。

そして、このスコットランドで、妻リタと出逢い、1920年(大正9年)結婚。竹鶴26歳、リタ24歳であった。
この結婚には、周囲の猛烈な反対があったが、リタは血族の絆を捨ててまで竹鶴の元に嫁いだ。
その年の11月リタを伴い帰国。
帰国後、摂津酒造は、純国産ウイスキーの製造を企画するも、第一次世界大戦の戦後恐慌によって資金調達が出来ず、計画は頓挫してしまう。
そんな中、やはり本格ウイスキーの到来を確信していた寿屋(後のサントリー)の鳥井信治郎は、日本での製造に向けて、ウイスキーの権威、ムーア博士に技術指導を打診していた。
ムーア博士から、「日本には若くて優秀なスコッチウイスキーの技術者がいるではないか」と言われ、竹鶴政孝を推薦される。
1923年(大正12年)鳥井は竹鶴を好条件で遇した。
ここから、鳥井と竹鶴による国産ウイスキーの製造に向けての取り組みが始まるのです。
竹鶴は、ウイスキーの製造工場はスコットランドに似た風土の北海道に作るべきだと考えていたが、鳥井は、消費地から遠く輸送コストががかかることと、客に直接工場見学させたいという理由で難色を示した。
結局、大阪近辺の候補地5ヶ所から、良質の水が使え、スコットランドのウイスキーの産地ローゼスの風土に近く、霧が多いという条件から、山崎を選んだ。
工場及び、製造設備は、竹鶴が設計。
特に、ポットスチル(蒸留器)は、竹鶴が何度も製造者を訪れて、細かい指示を与えた。
1924年(大正13年)山崎蒸溜所完成。竹鶴が工場長となる。
そして、1929年(昭和4年)サントリーウイスキー白札発売するが、失敗。
続いて、1930年(昭和5年)サントリーウイスキー赤札を発売するも失敗。
元々、ウイスキーの製造は時間のかかるものであるのに、出資者たちから収益が上がらないと批判が上がったため、急いで製品化してしまったので、失敗は仕方ないと思われます。
この辺りから、じっくりいいものを作りたい竹鶴と、鳥井の考えが合わなくなって来たのかもしれません。
失敗で得た経験を踏まえながら、鳥井は竹鶴に長男・鳥井吉太郎をウイスキー製造の責任者として、教育を任せると共に、休むことなく原酒の仕込みを続けてゆく。
1934年(昭和9年)竹鶴は、後続の技師が育ってきた事、鳥井の長男吉太郎に一通りのことを教え終わった事、最初の約束である10年が経過したことから、寿屋を退社。
北海道の余市に、ニッカの前身である大日本果汁株式会社を作る。
余市こそが、スコットランドの風土に酷似した竹鶴が探し求めていた土地だったのです。
湿った風、冷涼な空気、足の下には無尽蔵のピート(泥炭)が広がり、清冽な水が湧いている理想の土地に巡りあったのです。
最初は、りんごジュースを製造しつつ、ウイスキーの原酒を作り続け、苦労の末、
1940年(昭和15年)ニッカウイスキーの誕生。
やっと、竹鶴の納得いくウイスキーが完成したのでしょうね。
竹鶴政孝のこと、長くなりましたが、だいたいわかってもらえたでしょうか?
詳しくは、NHK連続テレビ小説「マッサン」を見て下さいネ
なかなか、ガイドツアーの中身にまで話がいかなくてすみません
今日はこの辺で、
帰りにポチッと応援お願いしますm(_ _)m
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昨日のブログで、竹鶴政孝の事に触れましたが、
彼こそが、「日本のウイスキーの父」と呼ばれ、後にニッカウイスキーの創業者となる人です。
「花子とアン」の後の、9月からのNHKの朝ドラが、この竹鶴政孝と妻リタをモデルにした「マッサン」です。
スコットランドから来た妻リタが、政孝のことをマッサンと呼んでいたので、「マッサン」というドラマ名になったようです。
ドラマも始まることですし、今日は、竹鶴政孝の事を少し記しておきたいと思います。
広島県賀茂郡竹原町(現竹原市)の造り酒屋で生まれた竹鶴政孝は、大阪高等工業高校の醸造学科で学び、洋酒に興味をもち、1916年(大正5年)卒業を待たずに大阪市の摂津酒造に入社。
当時、寿屋(後のサントリー)の下請けとして摂津酒造は「赤玉ポートワイン」も作っていたが、アルコール殺菌が徹底して行われてなかった葡萄酒の瓶が、店先で破裂する事故が、多発。
しかし、竹鶴が製造した赤玉ポートワインは、徹底して殺菌されていたため、酵母が発生増殖することなく、割れるものが一つもなかったそうです。
このことで、竹鶴の酒造職人としての評判は、世間に広がり、1918年(大正7年)摂津酒造社長、阿部喜兵衛の命を受け、ウイスキーの製造技術を学ぶため、単身スコットランドに赴き、グラスゴー大学で有機化学と応用科学を学ぶ。
しかし、座学だけではどうにもならないという焦りから、ハイランド地方の蒸溜所に軒並み実習願いを出す。
「一日も早く国産ウイスキーをこの手でつくらねば」
という使命があったから。
そんな中、ロングモーン蒸溜所から、実習の許可が下りた。
来る日も来る日も朝から夜遅くまで現場を歩きまわり、人の嫌がる仕事も勉強だと進んでこなした竹鶴。
実習では、なかなか細部まで明らかにされなかったが、幸運にも年老いた職工が、東洋から来た青年の熱意に感じ入り、蒸留器のバルブの操作などを教えてくれた。
いつしか、竹鶴のノートには、びっしりと設備のことや操作の注意などが書き込まれていった。
そして、このスコットランドで、妻リタと出逢い、1920年(大正9年)結婚。竹鶴26歳、リタ24歳であった。
この結婚には、周囲の猛烈な反対があったが、リタは血族の絆を捨ててまで竹鶴の元に嫁いだ。
その年の11月リタを伴い帰国。
帰国後、摂津酒造は、純国産ウイスキーの製造を企画するも、第一次世界大戦の戦後恐慌によって資金調達が出来ず、計画は頓挫してしまう。
そんな中、やはり本格ウイスキーの到来を確信していた寿屋(後のサントリー)の鳥井信治郎は、日本での製造に向けて、ウイスキーの権威、ムーア博士に技術指導を打診していた。
ムーア博士から、「日本には若くて優秀なスコッチウイスキーの技術者がいるではないか」と言われ、竹鶴政孝を推薦される。
1923年(大正12年)鳥井は竹鶴を好条件で遇した。
ここから、鳥井と竹鶴による国産ウイスキーの製造に向けての取り組みが始まるのです。
竹鶴は、ウイスキーの製造工場はスコットランドに似た風土の北海道に作るべきだと考えていたが、鳥井は、消費地から遠く輸送コストががかかることと、客に直接工場見学させたいという理由で難色を示した。
結局、大阪近辺の候補地5ヶ所から、良質の水が使え、スコットランドのウイスキーの産地ローゼスの風土に近く、霧が多いという条件から、山崎を選んだ。
工場及び、製造設備は、竹鶴が設計。
特に、ポットスチル(蒸留器)は、竹鶴が何度も製造者を訪れて、細かい指示を与えた。
1924年(大正13年)山崎蒸溜所完成。竹鶴が工場長となる。
そして、1929年(昭和4年)サントリーウイスキー白札発売するが、失敗。
続いて、1930年(昭和5年)サントリーウイスキー赤札を発売するも失敗。
元々、ウイスキーの製造は時間のかかるものであるのに、出資者たちから収益が上がらないと批判が上がったため、急いで製品化してしまったので、失敗は仕方ないと思われます。
この辺りから、じっくりいいものを作りたい竹鶴と、鳥井の考えが合わなくなって来たのかもしれません。
失敗で得た経験を踏まえながら、鳥井は竹鶴に長男・鳥井吉太郎をウイスキー製造の責任者として、教育を任せると共に、休むことなく原酒の仕込みを続けてゆく。
1934年(昭和9年)竹鶴は、後続の技師が育ってきた事、鳥井の長男吉太郎に一通りのことを教え終わった事、最初の約束である10年が経過したことから、寿屋を退社。
北海道の余市に、ニッカの前身である大日本果汁株式会社を作る。
余市こそが、スコットランドの風土に酷似した竹鶴が探し求めていた土地だったのです。
湿った風、冷涼な空気、足の下には無尽蔵のピート(泥炭)が広がり、清冽な水が湧いている理想の土地に巡りあったのです。
最初は、りんごジュースを製造しつつ、ウイスキーの原酒を作り続け、苦労の末、
1940年(昭和15年)ニッカウイスキーの誕生。
やっと、竹鶴の納得いくウイスキーが完成したのでしょうね。
竹鶴政孝のこと、長くなりましたが、だいたいわかってもらえたでしょうか?
詳しくは、NHK連続テレビ小説「マッサン」を見て下さいネ

なかなか、ガイドツアーの中身にまで話がいかなくてすみません

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